国立西洋美術館、おめでとう。でも私にとっては黒歴史

国立西洋美術館世界文化遺産に登録されたらしい。

 

大変めでたいことだ。

しかし、世界文化遺産に登録された、と聞いたときに思い出したのは上野駅から少し歩いたところにある瀟洒な美術館のたたずまいではなく、小学生の頃のどす黒い思い出だった。

おそらく西洋美術館に行ったことのある方で、美術館の前庭にある「地獄の門(byロダン)」と「考える人(これもbyロダン)」をじっくり見る人はいても「弓をひくヘラクレス」という彫刻に注意を払う人は少ないだろう。ちょうど美術館の門を入って右手、「地獄の門」の前に私の仇敵、「弓をひくヘラクレス」は鎮座している。エミール・アントワーヌ・ブールデルという人の作品らしい。

こういう彫刻では全く珍しいことではないが、この「ヘラクレス」君も全裸である。右膝をつき、左足は力いっぱい岩を踏みしめ、弓を引いている。まあ平たく言えば全裸で股をおっぴろげているわけである。

 

この彫刻の写真が私が小学生の頃、国語の教科書に載っていた。どんな文章に添えられていたか記憶が定かではないのだが、おそらく評論とかエッセイとかそんなものでこの「ヘラクレス」が取り上げられ、写真も掲載されていたのだと思う。

おしゃれ心ゼロの割には自意識過剰で耳年増でだった小学校高学年の私はこの写真を見てなんと思ったか。

 

「こんなエッチな写真を、そのままさらしてはいかん」

「これは隠さなくては」

 

とっさにそう思った。

 

そして取った行動は・・・

大変残念なものだった。

 

ヘラクレス」の股間、小学生のボキャブラリーで言えば「お〇ん〇ん」のところをちょうど隠すように、斜めに鉛筆を置いたのだ。

そして、鉛筆の太さはその「ヘラクレス」君の彼自身のところにジャストフィットしていた。

これでは逆にナニを意識しているとしか思えない行動だった。

 

そして、不審な動きをしている私に気付いた隣の男子がひょい、と教科書を覗き込んだ。

 

「え・・・なにやってんのお前」

「なに隠してるんだよ」

 「やらしいな」

 

人はあまりにショックを受けると、記憶が飛ぶらしい。

そのあとの記憶が全くないのだ。

たぶん顔を真っ赤にして、もにょもにょと言いわけがましいことをつぶやいたんだと思う。隣の男子が騒ぎすぎず、クラスの笑いものにまで昇格しなかっただけありがたいと思うべきかもしれない。

 

きっとこれからしばらく、西洋美術館のニュースを目にするたびに記憶がよみがえることだろう。いい思い出?とんでもない。

 

ル・コルビジェさんごめんなさい。世界に一人、あなたの創り上げた作品を目にするたびに、ヘラクレスの股間を思い出す人が、ここにいます。

毛深い豚の逆襲

高校生のころ、結構太っていた。

今より体重が五キロくらい多く、まあ見た目もややぽっちゃりしていたと思う。

おまけに運動嫌いで外出嫌いだったため、ぶよぶよして色も白かった。その上、年頃の女子にあるまじきことに美容にもとんと興味がなかった。足のムダ毛も生え放題だったためさぞやおぞましい姿だったと思う。

 

そんな私に兄がつけたあだ名が「毛深い白豚」だった。

まあ見たまんまのなんのひねりもないあだ名だったが、私の心はひどく傷ついた。

元々兄は色々私のことをからかってばかりだった。

私の足もよくからかいのタネだった。

足が大きく、まさに「馬鹿の大足」状態だったのだ。

思春期が来るか来ないかの頃に、足だけが大きく育つのをみてもしかしてすらりと背の高い女になるのではないか(それを支えるための大きな足なのではないか)と思っていたその予想は裏切られた。

自分の足を見るたびに、以前飼っていた雑種犬が、子犬の頃足が太くて大きいため獣医さんに「この犬、足が太いから大きくなるかもしれないね」と言われたものの、中型犬どまりだったのを思い出す。

そう、ただの足がちょっと太い中型犬に彼は育ち、私は甲高・幅広・履ける靴が少ないため靴のバーゲンセール行くとがっかりする大人に育ったのだ。

 

母に兄のことを告げ口すると「それはきょうだいだから。あんたが可愛いから」などど意味不明の言葉がかえってくるばかりだった。

 

兄妹そろって立派な中年となった今、兄は中年太りで腹の押し出しも立派になり、私は少なくともぽっちゃりではなくなった。ざまをみろと思っている。

さらに兄の娘が私より背が低いのに私と同じ足のサイズで、かつて私がぽっちゃりとからかわれていた体形により近い。きっと兄は私をいじめていたことを後悔しているに違いない。

 

こんなざまみろざまみろとお腹の中で父親を罵倒するおばさんなど、ただの恐怖と嫌悪の対象に違いないので、もちろん姪っ子にはそんなそぶりは見せたことはない。

 

だた、男子のみなさん、きょうだいと言えども、体形や容姿をからかわれると結構傷は深いのだよ!

エンジョイ・シンプル・イングリッシュ

NHKの語学講座を愛聴している。

ラジオではなく、ストリーミングとやらでスマホを使って聞いているのだ。

英語を使うあてもないのに、なぜか一生懸命聞いているのだが、その中で「エンジョイ・シンプル・イングリッシュ」がすごい。

5分の番組で、「辞書がなくても聞けた・読めた」という「家出のドリッピ―」もびっくり(年齢がばれそう)のうたい文句をしょった番組だ。日替わりでオリジナルストーリーやら日本の落語をベースにしたドラマ仕立てのストーリーやら、世界の童話やらを英語でドラマ仕立てにしている。

私がすごいと言っているのはそのお話の内容でも、「聞いているだけでグングン英語力が伸びた」などというありがたい効果でもない。

この英語のお話の前後にナビゲーターの肘井美佳さんという、きれいなお姉さんが軽く話の紹介をしたり、お別れの挨拶をしたりするのだが、それが結構強烈なのだ。

日本の昔話でよいおじいさんと悪いおばあさんが出てくると(昔話ではよくあるパターンだ、「なんでこの二人は結婚したんでしょう」とか、え、そこを突くか?というようなコメントをしてくることが結構多い。

ダジャレも飛ばすのだが、この前はイソップ童話の「太陽と北風」の放送の後で「トイレに入ってオー紙がなーい!おべんきでね~」とか言う意味不明のオヤジも卒倒しそうなギャグを飛ばしていた。

苦情は来ないのだろうか・・・とにかく謎である。

あちゃー

小さいころ本を読むのが好きだったから、なんか文章を書いてやろうと考えブログを始めた・・・はずが、一行も書くことなく何年も放置していた。

 

よくよく考えてみたら本当に本が好きだったのか怪しい気がする。

 

小さいころ、たしかに平均的なこどもよりは本を読んでいた。だがその原動力は「本の登場人物に乗っかって空想する」ための「オカズ」を探すため、だった気がする。

 

なにせ私は小さいころ、想像力のオバケのような子どもだった。ひたすらいろんな空想にひたり、常人にはよくわからない物語を紡いではそこにどっぷり浸っていた。

本来の物語では主人公がつまずいたりする(そこがお話のミソだったとしても)部分は排斥し、超人的なパワーと幸運をあわせ持つ主人公=私が爆発的なパワーで邁進して何もかもうまくいく…というような空想をガンガンしていた。

 

例えばもし当時の私がシャーロック・ホームズにあこがれて、自分が名探偵であるような空想をした場合。

アメリカでおこった連続殺人を解決してもらうため、FBIがヘリで召喚に来る。自分をめぐってFBIと日本の警察がスカウト合戦をはじめる。しかもバイオリンの名手で、サッカーはJリーグからスカウトにくるレベル、数学オリンピックにもでてしまう。しかも自分に恋い焦がれて追いかけてくるアイリーン・アドラーみたいな女もいる、みたいな感じだ。

(たいして頭のいいこどもではなかったため当時こんなに具体的な想像はできなかったが)

 

小さいころならそれでよいだろうが、中学生くらいまではその妄想癖が抜けず、高校生になってもうっすら残っていたような気がする。そんな人間が小説やら漫画やらの細かい陰影などわかるはずもない。

そんなおおざっぱな人間が本が好きとはちょっといえないだろう。文章だって書けるわけがない。おまけに社会人になってもきちんとした書類を作るような機会などほとんどなかった。だからたまに文を書くとなんだかくどい。同じ意味の言葉を何度も使っていたり、自分の中で言いたいことが完結しているので主語が一体何で、どうしたらその文章の次にその結論がくるのかも理解不能な文章が次から次へと吐き出されていく。

 

今回ブログを始めたのは、そう、文を書くのが得意(かもしれないから)ではなく、少しまとまった文章を書かないと

 

まじでやばい

このままだとまともな日本語の文を書かないまま、一生を終わってしまう(まあ困りはしないけど)

 

と思うようになったからだ。

 

というわけでとりあえず作文教室的な感じで始めようと思う。